nekonyantaro's diary

自分語りなど、よしなごと

バッシングとは批判の自己目的化

湯浅誠 内閣府参与辞任についてより:

何らかの目的を擁護するための手段にすぎなかった批判が、そもそもの目的を見失って自己目的化するとき、それをバッシングと呼びます。

直近の記事でとりあげた、内田樹氏の著作に書かれた「巷に呪いの言葉が溢れる状況」も同質の物かと思われる。

特に相手が約束を果たさなかった(たとえば宅配便が指定の時間以外に配達された、あるいは予約した品が指定された期日に入荷していなかった、というような問題自体はそれほど重大ではないが、疑いなく相手に非がある場合)とき、相手方の事情を斟酌した上で自分が受けた損害に見合う償いを求めるのではなく、相手を罵倒し相手の人格にまで攻撃を加えるのを見かける。特に匿名の掲示板などで顕著だが、「仲間うち」のソーシャルメディアでも散見される。

多くの場合、過ちを犯した側の応対にも問題の一因があるが、それが相手の人格を攻撃することを正当化する理由なるかは疑問。その様な言動をする人は、おそら過去に自分が仕事でその様な失敗をした際に、上長から同様に罵倒されることを何度も経験し、それに耐えることを強要されてきたのではないかとさえ想像してしまう。「無理というのは嘘吐きの言葉なのです。」と公言した某社の社長の様な上司に使われたのではなかろうか。

小田嶋隆氏のコラムで、自分がかつて教師から受けた体罰を引き合いに出して、「恫喝」の「効果」に嗜癖するリーダーの話が書かれているのを読んだ。その様なリーダーが(賛否が拮抗した状態ではなく)多大な支持を得て選ばれる事とも関連性がある気がする。これには「政治的ポピュリズム」と「営利メディアによる世論誘導」という問題も関連してくる。

湯浅氏の記事を引用しているhamachan(濱口桂一郞)氏のブログも興味深い。