nekonyantaro's diary

自分語りなど、よしなごと

等身大の自分を受け容れると言うこと

内田 樹「呪いの時代

内田樹「呪いの時代に」

ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか

暴力は生身の人間ではなく、記号に対してふるわれます。その地に住む人々が集合名詞で名指しされ、記号的に処理されたとき、すさまじい軍事的破壊が可能になった。

破壊する側にいさえすれば、どんな上位の相手とでも五分に渡り合えます。いや、五分以上の優位に立てる。自分よりはるかに年長で、社会的地位もある人間を傷つけることができる。この全能感に、若者たちはたやすく嗜癖(特定の行動や物質に過度に依存すること)してしまいます。

攻撃性が野放しになった理由の一つは、自尊感情が満たされることを、人々があまりに求めすぎているからです。

人々は「あなたには無限の可能性がある」と持ち上げられる一方で、社会的にはさっぱり評価されない。…… この高すぎる自己評価と低すぎる外部評価の落差を埋めるために、多くの人々が呪いの言葉に手を出すようになる。

だから、呪いを制御するには、生身の、具体的な生活者としての「正味の自分」のうちに踏みとどまることが必要です。妄想的に亢進した自己評価に身を預けることを自制して、あくまで「あまりぱっとしない正味の自分」を主体の根拠として維持し続ける。それこそが、呪いの時代の生き延び方なのです。

記号で切り取るには、世界はあまりに広く、人間はあまりに深い。その厳粛な事実の前に黙って立ち尽くすこと、それが祝福の作法だと僕は思っています。

週刊現代」2011年12月10日号より

何度も繰り返してかみしめる意味がある文章だと思いました。

筆者は触れていませんが、私自身が最近気になっているのは「何らかの落ち度のある相手」に対する執拗な罵りです。たとえば宅配便が指定した時間帯以外に配達された、それだけの「約束違反」に対して浴びせる非難の言葉。そしてルール(とくに法律)に違反した者に対する度を過ぎた非難。違反には「それ相応」の代償を求められて然るべきですが、そのところのバランス感覚がおかしくなっているように感じます。