nekonyantaro's diary

自分語りなど、よしなごと

呪いの時代(内田樹氏)

内田樹氏の週刊現代に掲載された記事が興味深かったので紹介します。

最近、とくにネット上でよく見かける「異常なまでに他人を攻撃する」書き込みをする人たちの心理を分析しています。彼の解釈ではその様な発言は、科学という物がないに等しかった過去に存在した「呪殺」というものの現代版である、とのことです。

その様な風潮が広まった背景には自説を一方的に主張して、他人の意見には揚げ足取りのような反論しかしない政治家や、特定のカテゴリの人たち(たとえば「団塊世代」)を一括りにして(この行為を彼は「記号化」と表現しています)憎悪の対象とするようなマスメディアがあると分析しています。

彼は、他人が敬意を抱いたり、愛着を持っていたものを叩き壊すことは「全能感を与え、強烈な快楽をもたらし、自分より上位な者に対し優位に立てる」と指摘しています。そしてその快楽を麻薬になぞらえて、呪いの言葉は(繰り返すうちに)「その言葉をいっそう激烈なものにしてゆくようになる」と述べています。

そしてそのような攻撃性が野放しとなった理由として、「自尊感情が満たされることを、人々があまりに求めすぎている」ことを指摘しています。「多くの人は、自己評価と外部評価の間に歴然とした落差があり」、「自己評価は高くても、周りは誰もそれを承認してくれない」という、「評価の落差が人々を不安にしている」と説明しています。

彼の結論は、「高すぎる自己評価と低すぎる外部評価の落差を埋めるために、多くの人々が呪いの言葉に手を出す」ので、ありのままの「あまりぱっとしない正味の自分」を受け入れる事が唯一の解決法であるという立場のようです。

以下は私自身の解釈です。「高すぎる自己評価」の背景としては「少子化による親の過干渉」が有る様に感じます。「自信を持った子に育てたい」という親心は、いわゆる「過保護」や「甘やかし」とは違う形でも、「高すぎる自己評価」を形成してしまう危険性があると思います。またもう一つの理由として、敗戦後に「向上心」や「自立心」を尊ぶ欧米風の道徳が、十分に消化されない形で学校教育や社会が子どもや若者を見る目に取り入れられたことも遠因となっている気がしています。

そして「低すぎる外部評価」の原因にも「椅子取りゲーム的生存競争」を経済成長の原動力としている社会の体質があるのではないかと感じます。

これらの考察は多分に偏見が含まれている可能性はありますが、自分が日頃感じている事と内田氏の文章に共鳴するものが有る様に感じての事です。