nekonyantaro's diary

自分語りなど、よしなごと

コンフォートゾーンってそんなに有害なの?

NAVERまとめ「能力が10分の1に?コンフォートゾーンの恐るべき魔力」

 

たしかに「コンフォートゾーン」に長くいると、そこから出ざるを得なくなった時に著しくパフォーマンスが低下する。これを問題にしてコンフォートゾーンを絶対の悪みたいに考えるのはいかがな物だろうか?

緊張を強いて目先の生産性を上げることが本当にトータルでメリットが高いのだろうか?

むしろ成長を阻害する事にならないか?いろいろ考えてみる必要がある。

老害とかピーターの法則とか

参照記事:情報学の情緒的な私試論β 太陽が眩しかったから
老害が「害」と言われる本質は正しいフィードバックを受けられないまま固定観念を強めて他者に「呪い」をかけるから」

老害の本質は「予言の自己実現機能」

自分の助言に従わない者に対し、意図的にその人の妨害をして「だから言ったじゃないか」と言う。上司だと「指示に従わない」という理由で低い評価を付けることもある。

ピーターの法則

『人はその能力の上限まで出世する。有能な「平」はいつまでも「平」でおらず、管理職になるが、管理職としてはまだ「無能」。管理職も階層を上がる度に常に「無能」な状態になる。

そのため組織の各階層は無能な者で満たされる。そのため組織は「まだ出世の余地がある者」だけが仕事をすることで回る。』

という話らしい。

参照リンク (Wikipedia)

 

相手の立場になって考えろと言うけど…

他人に対して「自分だったらこうされたい」と思うようにしなさい、と教わったけど、それで本当にうまく行くのか?

なんか違う気がしてきた。たぶん友達が多くて、いつも(特定の同じグループでなく)いろんな人と一緒に行動している様な人はこれで良いのだと思う。

ぼっち系とか、親友はいるがいつも同じグループでしか行動出来ない人は、結構偏った価値観持っていて、いつの間にか他人も同じだと勝手に思い込んでいたり、価値観が違う人たちも多いことに理屈では気づいていても、実際行動するときにそのことを忘れてしまったり、ということが多々あるのではないだろうか?

そんな人が「己の欲することを他人に施す」と、予想外の反応が返ってきて戸惑う。相手は怒るし自分は何が悪かったのか判らなくてうろたえる。結果、自信喪失したり人間不信が強まったりすることになる。

これがいわゆる「コミュ障」の形成過程のモデルじゃないかと思ったりする。

役に立たない人間

役に立たない人間は消えなくてはいけないのですか?

しつこいけどまだ答えは出ません。

「皆がそうなったら誰も役に立つ仕事をしなくなる」。なるほど「小さな白い鶏」的な意見ですか?

 

問答無用、当たり前のことを聞くな は答と認めません。

 

余談ですが、あの物語を国語の教科書で読んだ時に「何とも言い難い違和感」を感じたことを数十年後の今も記憶しています。

他人の幸せを願う気持ち

利己主義は自分を利さない

いうまでもないことだが、自分の都合だけを押し通そうとする人は他人から嫌われ、いろいろなことがうまく行かないので、結局自分が損をする。そのため「大人になる」ということには、「自分の欲望を抑えて、他人の欲望の実現に手を貸す」ことを覚え、「互いに助け合う」ことを覚えることが重要になる。

しかしながら、そのことが本人にとって容易に受け入れられる場合と、大きな心理的負荷と成る場合とがある。これは個人の「寛容さ」や「他者配慮感覚」の差による物か?様精査。

他人の幸せを願う気持ちは誰にも備わっているものなのか

前段に書いた「助け合いとしての利己的でない行動」は、見かけ上他人を利する行動であるが、動機は「自分の利益を得るため」であり、「一見遠回りだが、各日に自己の利益が得られる方法ということである。

そのようなものとは全く異質のものとして、自分の損得抜きで「他人が幸せになることそのものが幸せになる」ということを道徳家や宗教家は説いている。筆者の主観では、特にキリスト教にその思想が強い気がする。

この「自分の損得抜きで他人の幸せを願う」気持ちは本当に存在するのだろうか。(職場などで、「周りの人が不満を持っているよりも幸せな方が、雰囲気が安らいで居心地がよい。だから人の幸せに貢献する」というのは、本質的に前者の「自分の利益になるから人の幸せに手を貸す」の方だと思う。)

自分に自信がないということ

All About の記事に関連して。

【このエントリーには考えをまとめるための備忘録として気づいたことを列記します。いずれまとまったエントリーに仕上げたいと思います。】

ストーカー的に相手に電話やメールをするのは「自分が見捨てられる」ことに不安があるから。

【筆者注】

  • ある団体行動に参加した後にグループから排除されたとき、「何が悪かったのか判らない」ことを何度か経験している。
  • 突然交際(必ずしも恋愛関係とは限らない)を断ち切られる。何が悪かったのか判らない。
  • 1対1で話しているときに他人の反応から心の内が読み取れない。後から「あの時○○といわれて凄く嫌だった」と指摘されて驚く。

親に見守られ承認されることで自信は育つ

アダルトチルドレン」の問題がまさにこの点。「承認された経験の欠如」

結局、自分に自信をもつ唯一の方法は「実績を上げること」で、実績については、多少のマイナス面があってもプラス面を大きく評価するのが大事。

コミュニケーション障害

匿名ダイアリーにこんな記事がありました。

最近「コミュ障」ということばをネット上を中心によく見かけます。コミュニケーション障害を略して「コミュ障」ということらしい。

実際にネット上で使われている物が、医学的な疾患の分類にある定義を厳密に当てはめたものなのか確認していないが、何らかの理由で「普通の会話」ができない人たちをさしているようです。軽い物では、「内気な性格で、単純な疑問を解決するために簡単な質問をするにも大きな勇気が要り、質問すること自体をためらい疑問の解決をあきらめる事が多い」というようなものも含まれる様です。

重度になると、職場で日常的な指示を出したり、受けた指示に対して応答することが出来ず、業務に支障を来し場合によっては職務を離脱することを余儀なくされるということも有るようです。

言語や聴覚の障害があるために、自分の言ったことが相手に理解して貰えなかったり、相手から言われたことが聞き取れななっかりする、という身体的な機能の障害でコミュニケーションに困難を来す、というのが一つの類型としてあるようです。一方で、言語コミュニケーション能力自体は健常であっても、発達障害、認知症あるいは脳障害などによって、「言語は理解出来ても意味が理解出来ない」または「意味は理解出来ていてもそれに対する適切な応答が出来ない」という場合もあるようです。

しかし、このような心身の障害を持たない人でも、「普通の受け応えが出来ない」という人もいます。気分のむらが大きく、機嫌が良いときは他の人と変わらない会話が出来るのに、(他人から見れば)なんでもない出来事で殻を被った様な状態になる人もいます。一方で常に人と関わることを苦にして引き籠もりがちになる、という人もいます。多くの場合、それらの人は「変わり者」「話の通じない奴」などのネガティブな評価を受け、公私ともに様々な問題を抱えることが多くあります。

この「心身の障害はもたないがコミュニケーションがとれない」人たちについては稿を改めて考えてみたいと思います。